1978年生 ● 王子シューレ ● カフェスタッフ ● 不登校=小6〜 ● シューレ在籍=中2〜18歳
小6で転校した学校は、荒れている学校でした。女の子が寝かされ、周りの子がチョークで顔をぬっている。それを止めたら、自分の方へいじめが回ってきました。シカト、悪口、葬式ごっこもやられました。先生も子ども達からいじめられていて、助けを求めるなんてできない。母にも言えず、やがて不登校になりました。
初めは親にむりやり連れて行かれ、学校を脱走して、近くの土手で1日過ごしたり、過呼吸発作を起こしました。それから母は何も言わなくなりましたが、私は部屋から出られず、カーテンをして閉じこもり、食べると戻し、3〜4か月で10キロやせました。
片道1時間半かかる私立中に入りましたが、辛くなり行けなくなりました。カウンセラーの紹介で心療内科へ行きましたが、コンクリートの建物の鉄格子の窓がある地下室で、ヘッドフォンをつけられ調べられました。「あ、私は病気なんだ」と思うしかなく、半年通いました。強い薬を飲まされ、だるくなりました。
シューレに入会して
その後しばらく家にいて、中2の時シューレに入会しました。91年の頃です。シューレではいろいろな活動によく参加しました。「歩こう会」というのをやっていて長野まで歩いたり、山歩きにはまったのを覚えています。
93年ごろ「日米フリースクール交流」に参加。前半2週間は米国クロンララスクールの子たちが来日、後半2週間はシューレの子たちが渡米し、1か月間太平洋を渡って旅をしあう、すごい旅行でした。私は委員長の秘書役を引き受け、どうやったら楽しく準備できるか、よく相談していました。資金を自分たちで集めるのが大変、ホームステイを引き受けてカルチャーショック、アメリカへ行ってカルチャーショック、でした。
次の年、ログハウスづくりに関わりました。場所探し、設計、4か月間長野での泊まり込み。キャンプ場近くの山の中での建設で、私は朝昼晩の御飯係。しんどさをどう前向きに考え、どう受け流すか、いろいろ考えました。
日常は手話講座を始めたりしました。シューレでは子どもの希望で時間がつくれ、スタッフが講師を探してくれました。
バセドー病と向き合いながら
18歳でシューレをやめてから、いろんなバイトをやりました。ビラ配り、短期派遣、展示場のバイト、喫茶店など。それで「飲食店が楽しいかも」と思い始め、23歳の時オープニングからスターバックスの店舗に入り、27歳で契約社員になりました。その後、異動して、店を任されたり、何店も勤務しました。
しかし、私は28歳の時バセドー病になり、働けなくなりました。1年間休ませてもらい復活、病気とつきあいながらも働き、30歳で職場結婚しました。ですが、32歳でバセドー病が再発。今回は1年間の休職では治らず、退職に至り、計3年間家にいました。
今日1日を丁寧にすごす
1年目は非常に体調悪く、昼間全く1人だし、つらい気持でしたが、少しでも元気な日は「今日はこれができそう」と暮らしをていねいに過ごしました。
2年目は体が楽になってきたけれど、人には会いたくない。主人が休みの日に一緒に近場に出かけるくらいにはなりました。3年目はさらに元気になり、散歩の時、市役所のポスターで手話の育成講座があるのを知り、週1回、1年間通いました。店長をやっていた時、聴覚障害の店員とコミュニケーションがうまくとれず、その人が3か月でやめたことに申し訳なさを覚えていたからです。
今は、体力もかなり回復し、アルバイトからの再出発で、家の近くのスタバで週3から始め、今は週4働いています。人とつながりたいと思うし、働くということにやりがいを感じるからです。
私にとって不登校は大事な経験で、今も自分を支えています。「学校に行けない」から「行かない」を自分で決断した、そこから学んだ事が大きい。常に自分を自分がどう受け入れるか、です。「自分を認めて生きる」という事が生きる上でとても大切だと思います。