1972年生 ● 東十条シューレ ● デザイナー ● 不登校=12歳(中1)〜 ● シューレ在籍=12歳〜15歳
黒の輪ゴムがなくて
中学校に入学すると、校則が細かく、生徒が週番としてチェックのために校門に立ち、生徒同士で校則違反を注意することにかなりの抵抗感がありました。
ある日、髪を結ぶ黒いゴムが見あたらなくて紫の髪ゴムで登校したら、紫は不良の色と先生に叱られました。叱られないように、細々とした校則を守るために神経をピリピリととがらせる毎日で、次第に学校へ行くことができなくなりました。
始めは母にむりやり学校の門まで連れて行かれたこともありましたが、その後、母がシューレを教えてくれました。シューレ開設時での入会です。今もシューレを探してくれた母に感謝しています。でも、入会後も、母に「2学期から学校へ行けば?」と言われました。何を言われても登校しない私に「学校へ行かないんならあんたを殺して私も死ぬ」と首をしめてきたりと親との闘いがありました。親の「学校信仰」が消えるまで時間がかかりました。
シューレでやりたいことはとことんやりました。合宿や絵やマンガ、文章の好きな女の子3人で『がとこ』という同人誌を発行したり、シューレ通信を子ども達で作るようになり、たくさんイラストを描いたりしました。
ミーティングはシューレの基だと思います。大人も子どもも同じ1票で発言できる「自由」を最も体感できる場でした。ミーティングの時間以外にも、友達同士でよく議論していました。話し合うことで自分の考えや友情が深まりました。
その後、もっと勉強したいし中卒だけでは不安な気持ちから、高校に進学。高校は自由な校風でしたが、入ってみて「ここは、やっぱり学校だな」と思いつつも、がんばって通いました。
高校卒業後、地方の芸術大に入学。でも、おしゃべりしながらの授業になじめず、中途退学し、通信制の美術短大に入り卒業しました。
就職は、美術工芸品の卸し会社に入社、その後、結婚しました。
しかし、夫の仕事の関係で東北地方に転居となり、すべてのことから切り離された生活になり、悩みましたが、2人の子どもを連れて思い切って離婚。その後、シューレの東十条時代の会員だった人と一緒になって、今は幸せに暮らしています。その後、事務の仕事をしつつ、デザインを学ぶために美大の通信教育過程に編入学。なんとか卒業しました。
世の中を良くしようという生き方がある
仕事、学業、子育てのことだけで必死だった私の目の前に現れたのが、2013年の「特定秘密保護法」です。この法案の中身を見たとき表現者として、ものすごい危機感を感じました。これをなんとか止めなければと勇気を出してデモに参加してみました。問題は追いつかないほど進み、ご存知の通り現在進行形です。
私は学んだことを生かして、プラカードを作りデモに持っていくようになりました。他の人にも利用してもらおうとサイトを作り、ツイッターで拡散しているうちに、利用してくれる人が増え、現場でも顔見知りの人が増えていきました。そのうちにチラシやバナー作成を頼まれるようになり、基本はボランティアですが、チラシ製作の依頼を受け、デザイン料を頂くことに。美大を卒業して3年、予想もしなかった形でデザイナーデビューです。
学校教育は、先生、先輩という目上のものに取り入り、空気を読むことが得なんだと、じわじわと洗脳し、私たちは羊のように飼いならされてしまったのだと感じています。結果、権力に警戒、対峙できずに、世の中に無関心な人たちが生み出されています。
私がそんなふうにならなかったのは、シューレに行ったことが大きいと思っていますし、教科書問題などでも公教育が戦前回帰を始める中、フリースクールの教育が唯一の希望だと思います。
私はこどもたちのため、平和な未来のため、自分にできることをせいいっぱいやっていこうと思っています。