1988年生 ● ホームシューレ ● 短大生 ● 不登校=9歳(小4)〜 ● シューレ在籍=10歳(小5)〜21歳
気にかけて下さった先生、信じて待っていてくれた家族
私は現在26歳で、佐賀県内の短期大学で保育や教育を学んでいます。
学校に行けなくなったのは小4の時。学校での自信喪失は大きかったですが、6年生の頃、担任の先生の他、気にかけて下さっていた先生が、私との繋がりを大切にし、「自分のペースでいいんだよ」という言葉をかけて下さいました。その先生は海外経験が豊富な方で、たくさんの海外のお話を聞かせて下さいました。
中学生になり、新しい環境に慣れていく友人達の姿と、その流れについていけない自分に焦りは増すばかり。どうしても毎日が辛かったある日、私は糸が切れたように、「もういいや」と部屋から出ない事を決意しました。昼夜逆転し、家族が寝静まった時間に部屋から出る生活でした。
「もう人生なんてどうでもいい」とばかり考えていた私に、中2のある日、大きい転機が訪れます。日韓共催W杯でした。韓国に関心を持つようになり、様々な国の人同士でサッカーの応援を楽しんでいる姿に心を打たれ、国際交流や外国語に大きな興味を持ちました。だんだん「今からでも大丈夫かな」「今までを無駄にするかどうかは、今後の自分次第なんだ」という思いが芽生えました。自室から出られない日々は約3年間続きましたが、海外に行ってみたいという漠然とした思いから、外へ出る力が湧いてきました。そんな私を信じて根気強く待っていてくれた家族には、感謝しかありません。
韓国語の勉強が自信に
中学卒業後は、韓国の言葉や文化の勉強を深めるため、毎日近くの図書館に行き勉強する日々。そして家族での訪韓、韓国語の検定試験への挑戦と合格を経験し、それが長い間自分になかった「自信」に繋がりました。韓国語を活かしたいと、翻訳・通訳ボランティア、小学生への韓国語の指導等、出来る事を出来る範囲でしていき、とても有意義な時間でした。
21歳での自動車学校への入校も大きな転機でした。まだ体調や気持ちの安定が難しかった自分にはとても大きな挑戦でしたが、先生方との交流、長年見る事さえも避けたかった「制服を着た高校生」との交流、その全てが新鮮で楽しいもので、人に会う事への恐怖は完全に消えました。
自分の経験を活かしたい
ある日、交流が続いていた先生から連絡があり、その時先生が勤務されていた小学校へボランティアとして行かせてもらう事になりました。そこで交流する生徒は「不登校気味の子」。「不登校を経験して歳も近いあなたにしか分からない思いがあると思う」と言われ、経験を武器として活かしたい思いが強かった私は、喜んでその話を引き受け、楽しく子どもたちと接する事ができました。
その頃、通信制高校へ入学と同時に、毎日働きたいとも考え、両立できるような仕事を探して出会ったのは「学童保育」という世界でした。様々な個性を持つ子ども達を私なりの視点で受け止め、その個性を大切にしつつ、子ども達がのびのびと過ごせる環境に関わりたい。そんな思いで学童保育指導員として子ども達と過ごす日々は、私にとって宝物でした。また、通信制高校では積極的に楽しもうと生徒会活動にも関わり、最終学年は生徒会長をさせて頂きました。
今後保育や教育に携わるため、本格的に勉強をし資格を取るという新しい目標ができ、25歳での高校卒業と同時に短大へ。現在は毎日勉学やボランティア活動等に励んでいます。一緒に学ぶ友人達に、不登校や引きこもりの経験を話したりもしています。支えて下さった先生方のような存在になりたいと強く思うと同時に、そんな保育者・教育者が増えて欲しいという願いがあります。
私にとってホームエデュケーションは、最初は正直「挫折」だったかも知れませんが、その経験があったからこそ、人の優しさや温かさ、一つひとつの出会いや出来事、言葉を大切に思うようになりました。今後もその気持ちを大切に、誰かの心に寄り添いたいです。