1994年生 ● 王子シューレ ● NPOスタッフ ● 不登校=15歳〜 ● シューレ在籍=15歳〜18歳
自分が自分を認められなかった
7歳までは日本で生活をしていたのだけど、父が病気になり、幼稚園から家族は介護をしていました。でも父が治療のためアメリカに行ってしまった時、父を助けられなかった自分・何もできなかった自分という思いになりました。
その後自分もアメリカに行くことになります。その時は日本語しか話せなかったから、いじめられました。けれど自分が努力しなくちゃいけない気持ちが強くて、いじめられても自分でため込んでいました。先生からは気に入ってもらっていたけれど、なおさら自分のことを見せなくなっていました。
その後進学したイスラム系のチャータースクールでは、イスラム語ができないと怒られ、過食になり、体型のことでまたいじめられました。今度はそれがストレスで急激に痩せたけど、そのことでやっと自分は人に認められるんだと思えるようになってきました。
そんな時、日本に帰る事になります。結局アメリカには7年住みましたが、もう日本に戻ることはないだろうと思っていたので、日本語も全く勉強していませんでした。学校は、テストを何点以上とらないとダメで、夜の7時ごろまで居残りをさせられたこともあります。
ある日、体育で運動着に着替える時、急激に痩せたせいで体にしわのようなものがあり、それに対していじめを受けます。その時、あー、痩せてもこうなのか、と思い、居場所がなくなりました。
そこで初めて、今まで親に言えずにいた気持ちを全部話したら「そんなにしてまで行かなくていい」と言ってくれました。1か月くらい休み、だんだん退屈になってきた僕の様子を見て、親がシューレのことを見つけてくれました。
シューレでの自分の経験を話す とことんみんなで話し合う
最初はあまり行きたいとは思わなかったけれど、特に2人の友人との出会いがあり、徐々に行き出します。それでも2人がシューレに来ないと行かなかったです。だけど、シューレに通ううちに、別に誰かと一緒にいなくても一人で過ごしていてもいいと思えるようになり、次第に毎日通うようになりました。
東京シューレ24周年祭の時、初めて自分の経験を人前で話しました。話しながら、これまで自分がためこんできたものをやっと聞いてもらえる場に出あえたんだと思えました。気持ちがすっきりして、自分に向き合うようになり、苦しかったこと辛かったことを少しずつ手離すようになっていきました。
そういえば、4階のベランダにみんながいつしか集まるようになり、周囲からも「ベランダ部」と呼ばれるようになってましたね。ここで友人たちと、たくさんの話をしました。学校に行かなくなった時の話、将来の話、コーラメントスの話、シューレでやりたいことなど。一人ひとり個性があって、いろんな色がぶつかりあって、変化が生まれる。そこでリラックスでき、本当の居場所ができて、その後の音楽活動やイベントの実行委員会につながっていきました。
音楽を通して、人と向き合う場が楽しい
シューレを旅立つ少し前から、現在の職場であるNPO法人ハイテンションに関わっています。障がいを持った人と音楽を通して関わる中で、自分にも自信がつき、人と向き合いたいと思うようになっていました。それはシューレスタッフの子どもと向き合う姿勢がすごいと思い、僕もチャレンジしてみたいと思ったからです。音楽も楽しいけど、一人ひとりを大事にできるようになりました。
僕は、生まれた時から、貧しい時も、親からの愛情だけはしっかりと感じてきました。シューレでの時間は、仲間と一緒にいて、お互いをよくし合える関係の中で成長できました。ずーっと音楽に関わっていきたいと思っていましたが、今は子どものために過ごしやすい社会をつくりたいと思っています。心からしたいことをしていれば世界は成立すると思うんです。「僕は僕でいいんだ」という気持ちを大切に、僕もピースに生きていこうと思っています。