1970年生 ● 東十条シューレ ● シューレスタッフ● 不登校=14歳〜 ● シューレ在籍=16歳〜18歳
苦しかった時期から生きていてよかったんだと思えた瞬間
中2の3学期頃から学校に行きたくなくなりました。今考えると、学校生活で教師の納得できない行動でぶつかることが多かったことに加え、中3に入り体育教師から嫌がらせを受けるようになりました。
中1頃に、たまたま学校の机に頭をぶつけて、むち打ちになった後遺症から、時々、片方の目が見えにくくなったり吐いたりする症状が重なって、学校に行かなくなりました。
当時、「行かない自分はおかしい。人間として当たり前のことができない。社会の落ちこぼれだ。死んでしまいたい」と考え、言葉にできないその思いを、壁に食器をぶつけたり、ものを投げたりしました。しかしやった後は自分のことを責め、親への申し訳なさで苦しくなる。毎日その繰返しでした。
ストレスでどんどん食べるようになって、1年間で30キロくらい太ってしまいました。そのことで体にコンプレックスをもつようになり、電車に乗っていると人から見られているのではとか、誰かに陰口を言われている気持ちになり、とてもつらかったことを覚えています。
親戚の叔母からも「学校に行かずに、お母さんを苦しめるんじゃない」と言われたこともありました。父とも言い合いが絶えず、うっとおしい存在になり避けるようになりました。何をやっても理解されず、つらい気持ちを母親にぶつけるしかなかった状況でも、周囲は「母親がかわいそう」という見方をするので、とても孤立感が増えました。
登校拒否をした自分の整理ができないまま高校に入り、最初は行っていましたが、また7月ぐらいから登校拒否になりました。
シューレは母親が見つけました。初めて奥地さんに会った日、親との関係や登校拒否のことなど自分の思いを話したところ、「壊してしまったものはまた買えるよ。自分を傷つけなくてよかったね」「生きていてよかったね」と言ってくれました。いつも自分を責め続け、否定され続けてきた私が、初めて受け止めてもらえた瞬間でした。
その後、シューレで様々な活動を通して仲間ができ自信が持てるようになったことは、本当にありがたかったです。あの時、登校拒否してなかったら、世の中で起こっていることを深く考えずに生きていました。ですから学校に行かなかった体験は私にとって原点なのです。
シューレを退会した後は、2年間俳優のプロダクションで契約社員として働いていましたが、子どもに関わる仕事がしたくて保育などのアルバイトを探していました。その頃、初等部を本格的に開始することになったのを機にシューレのスタッフとなり、現在に至ります。
生きていることの大切さ
ここ5年間、大きな出来事がいくつかありました。「東日本大震災」「大津いじめ自殺」、そして3年前の7月、10代の頃はうっとおしい存在だった父の死でした。
父が入院した初日、ベットの上で母と私を見ながら「この家族で本当に良かった」と穏やかな顔で言っていました。父が最後に私に教えてくれたことは「家族」「生きていることの大切さ」「そこに居てくれる存在が大切」でした。私はこの4年間、命や生についてこれ程考えさせられたことはありませんでした。
今回5年前の原稿を読み直して、わかったことがあります。私の中学生からの「家族」との積み残しは、「生きていることの大切さ」「そこに居てくれるあなたの存在が大切」ということを言葉や態度で子どもの時に伝えて欲しかったのだと気づかされました。
今子ども達の相談の中で、時々「辛くて死んでしまいたい」また「親にもっと分かってほしい」という声を聴くことがあります。死にたい程満たされない思い、もっと自分を見てほしい、分かってほしいという命の叫びが聞こえます。
私は、家族にはなれないけれど、これからも相談してくる子ども達に「あなたの存在が大切」と言い続けていきたいと思っています。