1988年生 ● 王子シューレ ● カフェ店長● 不登校=小6頃〜 ● シューレ在籍=高2〜21歳
——今、カフェの店長さんですって? どんなお店ですか?
建築事務所の1コーナーとしてお茶が飲めるところだったのが、今ではご飯もカマドで炊いて出すカフェになっています。
その店の雰囲気が好きで、客として行っていたのですが、ある時ここで働けたらいいなと思って、思い切ってお願いしてみたのがきっかけです。いろいろ責任もあり大変ですが、その分やりがいもあります。
——なっちゃんは、強迫神経症でとっても苦しい日々があったけれど、いまは元気に働けるようになったんですね。
はい、私は小5で受験を考え、塾に行くようになったのですが、小6のある日、体調が悪くなり、塾に行けなくなりました。行こうとすると具合が悪くなる、学校でも同じような感じになってしまいました。
初めは親は無理にでも行かせようとしましたが、図書館で「東京シューレ物語」を読んで、少し手がゆるみましたね。でもそれは少しずつなので、家で休んでいても連れ出そうとされて辛かったし、自分でも何で出られないんだと思って、外出に慣れなきゃと考えていました。
中学に入学しても似た状態でしたが、中2の頃から、汚いことに敏感になっていって。自分では何故そうなるかは分からなかったけど、地面が汚い、その地面にさわるジーパンの裾が汚い、ジーパンの裾がさわると家の床も汚い、そこにさわる手が汚い、しまいには、ベッドの上でしか暮らせなくなりました。
母も父もその頃どうしたらいいかわからず、「考える会」や「親ゼミ」に参加するため、シューレに行ってましたね。調理器具なども気になるようになり、「サトウのごはん」などしか食べられない。1日が本当に必死でした。
母とはすごく話しましたが、あとはテレビとオレンジページを見るくらい。
ある時、すごくやせてるのに気がついた母が医者に電話して体重を計ったら30㎏を切っていたんです。危機的な状態で点滴を打たれました。私自身も食べなきゃと思い、食べられるものをちょっとずつ増やしていきました。お母さんが作ったものを久しぶりに食べて、「おいしいなあ」と本当に思いました。
——病院は通ったんですか。
1回行っただけです。だって外に出るのが大変な中やっと行ったのに、医者は一言「強迫神経症ですね」だけで。ショックで、もう行く気がなくなりました。薬もちょっと飲んだだけです。
私の中では、「辛くてどうしよう」よりも「今の自分を受け入れてしまおう」と考えるようになり、それから少しずつ楽になっていきました。家の中でだんだんいられる所が広がり、その時の自分にできる範囲で、やりたいことをやっていました。一番やったのが料理です。それが今の仕事にも役立っています。
——シューレに来たのは?
高2年齢の時ですね。親とたまに外出するくらいでしたが、それではつまらなく、シューレだったら通えるんじゃないかと。
電車は乗れないので、親に車で送ってもらいました。自分のペースを大事にして、自分の関わりたいことを、自分の関わり方でやっていくようにしました。無理したら自分に返ってくるので。
スタッフの石平さんとよく話しました。そのうちフリフェスの実行委員会や長野のログハウス合宿にも参加するように。自分という存在を認めてくれる安心感がありました。シューレがあって、今があると思っています。シューレの人とは深く付き合えますね。
——シューレには年限の21歳までいたんですね。その後は?
まず近所のパスタ屋さんの貼り紙を見て、週1からバイトを始めました。そこを2年半やって別のこともしたくなり、その後もいくつかの飲食店で働きました。次の働き場所を探していた時、最初に話したカフェに出合うわけです。
——よくここまできましたよね。生きる上で大切な事は?
自分が楽に楽しくいられること。仕事もやりたいことでないとできません。食と関わりたかった私は、今それを通して生きている。自分が自分でいられることをこれからも大事にしていきたいと思います。