1977年生 ● 東十条・王子シューレ ● 財団法人役員 ● 不登校=小5〜 ● シューレ在籍=11歳〜19歳
小学5年生でいじめをきっかけに不登校を経験しました。1年位は家にいてテレビを見たり、ゲーム三昧になったり本を読んだりしていました。家でしたいことは一通りしたと感じた頃、いろんな人に会いたくなり、親が見つけてくれた東京シューレに通うことにしました。
日米フリースクール交流
シューレでは、いろんな講座に出たり、周年祭や夏合宿などのイベントの実行委員会に参加したり、『東京シューレ通信』の編集長も務めました。企画・運営をよくしていました。
16歳の時、1ヶ月に渡る日米フリースクール交流に参加します。お互いの国を2週間ずつ旅行し交流するプロジェクトです。先にクロンララスクールの子ども、スタッフが来日し交流。京都、姫路、広島などを一緒に旅行し、その間にシンポジウムを開き、広島平和記念公園で平和について意見交換もしました。
後半は、日本側が渡米しミシガン州にあるクロンララと交流、その後、車でニューヨークから東部を南下し、全米フリースクール大会に参加、再びクロンララに戻る、長大な企画でした。
この企画準備の時期は、高校浪人中で、再度同じ学校に受験して高校に行くか、行かないかの選択の時期でした。テレビでしか知らないアメリカを実際に自分の目で見てみたい思いと、学校に行った場合の生活を比較し、学校外でやっていく方が自分に合っていると考え、アメリカ行きを選択し、学校に行かないことを主体的に選んだのです。
日米のフリースクールは違いもあるけれど、子どもの意見や考えが尊重され、話し合いの場を持ち、大人と子どもが対話をしながら作っていくことは同じだと感じました。この交流で、世界への最初の扉が開き、世界が近くなったと感じたのです。場所や環境が変わることで、マイノリティ、外国人になるという体験も、とても大きなものでした。
ユーラシア大陸横断旅行
翌年、ユーラシア大陸横断旅行に参加。クロンララの旅行中に次は世界一周の声も出ましたが、世界一周は時間も費用も膨大なので、ユーラシア大陸を太平洋側から大西洋側まで列車で横断し、地元の人と出会うプロジェクトです。
中国から列車でモンゴル、ロシア、ポーランド、ドイツ、オランダで大西洋にたどり着くまで、1ヶ月間の旅行です。ポーランドでは地元のフリースクールの子の家へホームステイし、アウシュビッツ強制収容所にも行きました。訪れた場所はどこも第二次大戦の傷跡があり、自分たちが意識しないと歴史は風化していくのだと実感した旅行でした。
不登校は、自信とか自尊心が大きく崩れた経験でした。自分がいなくても世の中は問題なく回っていく、自分の存在の希薄さを感じていたのです。でもシューレでの日常で、自分が一歩踏み出すと世界に一歩近づく、自分一人の力は決して大きくないけれど、必ずしもちっぽけなものではないと感じられる体験と出会いました。
自分と他者との関係をつなぎ直す、自分が自分と出会い直すことを経験した大切な時間でした。
マイノリティーの視点から社会に関わる
1997年3月にシューレを退会、その2ヶ月前から財団で働き始めます。企業に子どもへの関心を高めてもらう活動と、子どもに関係するNPOへの助成を行う米国の財団です。学歴よりも経験重視で声がかかりました。
現在は、仙台で別の公益財団法人で働いています。東日本大震災を機に設立され、テーマを限定するのでなく、地域の課題を解決することに資する活動をするコミュニティー財団です。
現在、唯一の常勤役員として、13人の専従スタッフと共に、事業計画づくり、資金調達活動、助成事業の統括などのほか、支援先の組織に対する経営支援を各地で行い、岩手県、宮城県、福島県をまわっています。
不登校の経験から、マイノリティや社会的な弱者と呼ばれる方々のニーズや声なき声をどう聴けるかを大切に、物事の背景や社会的な構造を理解しようと心がけて活動しています。