1994年生 ● 王子シューレ ● 大学生 ● 不登校=中1〜 ● シューレ在籍=中2〜18歳
理不尽な学校での経験
ぼくが不登校をしたのは、中1の秋。原因ははっきりしていて、バスケ部の先生の体罰です。殴ったり、けったり、暴言を吐かれたりしました。さらに、英語の教科書にあった絵を見て同学年の子が自分のことを「ボブ」と言い出したのが、部活、上級生、全校に広がったりしました。僕の父はアメリカの黒人ということが関係しています。他にも、夏休みに家族旅行で部活を休んだら先生からものすごく怒られ、自分に非があることで親が一緒に謝りに行ってくれたのに、生徒皆の前で親子で怒鳴られました。そして本当に嫌になり、それ以降行かなくなりました。
適応指導教室にも2回だけ行きましたが、担当教師が自分を幼い子扱いするのが嫌で行かなくなり、結局、「勉強はして」という親の考えで、塾に週1〜2回行っていました。塾の先生は「テスト近いんじゃないの」等学校の事をいうので、そこにも行かなくなりました。
中2の5月、親が本を見て東京シューレを知り、検索してみると、子ども達が楽しそうにバスケをやっている写真が出ていて、「バスケがやれるなら」と思って入会しました。
でも、最初は「行かないといけない」と思っていたし、緊張感もあって1ヶ月はシューレには行かなかった。
入って2ヶ月目、夏の合宿で九州に行く計画があり、断りにくくて行くことにしたんだけど、行ってみたら大丈夫だった。佐賀の吉野ケ里遺跡や水俣の相思社、患者の人の家でお刺身を頂いたこと等覚えています。その報告書作りからいろんな子と仲良くなったりしました。
合宿からつながりや活動が広がっていった
08年「不登校の権利宣言」への取り組みが始まり、僕は、「子どもの権利条約」の講座の最初から参加し、09年8月の早稲田大学での全国大会の発表まで作り上げました。その時は、ここまで広がるとは思っていませんでしたが。
そしてアラスカに行こう!という夢が生まれ、08年から09年にかけて、副実行委員長になり、10年1月に、ついにアラスカ行きが実現しました。はじめて自分が主体となって企画・準備をしたので達成感がありました。アラスカは、フリースクールが認められていて、高卒資格も取れ、体育館などの施設が充実していました。猫の解剖の授業に取り組むプログラムがあったりして、日本と大違いでした。
僕の父はアメリカ人の黒人が多い地域で育ち、地域でたった1人の大学出でした。そのことはどんなにすごいことかだんだん分かるようになり、自分も大学に行きたいと思っていました。
そのため、シューレの高等部にいながら、都内の通信制高校に通いました。高校の勉強は楽しいと思いませんでしたが、先生に「不登校の権利宣言」を見せ、共感してもらえたのが一番の思い出です。
自分は何者なのか「不登校」から「人種問題」へ
大学に入り、今、英語を主に学んでいます。教員免許も取得したいと思い、東京シューレ葛飾中で来年、教育実習もさせてもらう予定です。
大学でのエピソードですが、入学してまもない頃、スピーチ発表があり事件が起こります。皆は予め知って準備していたのに、自分がさぼって欠席したためスピーチがあることを知らなくて、いきなり事前準備なく皆の前でスピーチをすることになったんです。
僕は咄嗟に不登校について語りました。そしたらなんと僕が1位に選ばれ、学年全体のスピーチ発表者になってしまった。いや、僕は自分が不登校したなんて、特に言う事でもないと思ってたのに、でっかいホールでスピーチし皆に知らせることになって、思いがけない経験となりました。
僕は今後はアフリカに行きたいと思っています。僕の関心は、「不登校」から「人種」へ移り、人種問題をすごく勉強しました。黒人の歴史、アフリカの歴史、アメリカの歴史……古本屋で「おっ、こんな本がある」と読んでしまって、遅刻したこともあるくらいです。僕は自分のルーツが大事です。価値あるものと思います。自分が何者なのか、なぜ今こうか深く知って、将来アフリカのために生きたい。皆が「黒人の店から買おうよ」となることを夢みています。