1993年生 ● 葛飾シューレ ● 大学生 ● 不登校=中1〜 ● シューレ在籍=中2〜中3
初めに行きにくくなったのは、小学校5年の頃で少し休みがちになりました。その時は親に無理やり連れていかれたりすることもありました。
当時はがんばっちゃうタイプで学級委員長とかやっていたけど空回りしちゃっていた。6年生になったときは先生が変わって通うことができていました。
完全に不登校になったのは中学1年11月。その時は無理やり連れていかれることはなかった。原因はいじめ。中学に上がったが小学校の時の子も一緒で、環境が変わらず逆に関係が悪化しました。
11月からはぱったりで、自分ではこの頃のことはあまり覚えておらず、休み始めた当初は10数時間1日寝ていたと親には言われました。朝は9時〜11時に起床し、ブランチをして部屋に戻って本を読むか寝るかをしていたが、ゲームやパソコンはできなかった。本は東野圭吾・宮部みゆき・ノンフィクション、ミステリー系もよく父や母の本棚から借りて読んだかな。父は理系出身で、放射線関係の仕事をしているので、そういう仕事で使っている本もよく読みました。行っていた中学が家から近かったので日中は出られないので家で過ごしていました。
日常を楽しんでいたシューレ中
母親がネットで見つけて「こういう中学あるけどどう?」と聞かれて受験し2年次から編入。自分では、このままじゃしょうがないし現状を打破できるならいいかなという思いや、学校という形には安心感がありました。
シューレ中での生活は前の学校との違いを感じることはありましたが、無遅刻・無欠席で朝も早くから通っていました。5教科の授業は初めの2週間は参加しましたが、理科以外はその後ほぼ参加せず、実技科目では音楽以外は参加していました。行事の実行委員会は1度もやりませんでしたが、行事自体は好きでよく参加し、前日の準備などはよくやりました。
それと日常生活がとても楽しくグラウンドでサッカーをしたり、雨のときは当時1階の保健室でみんなでモンハンをやったりしました。3年生は進学を考えていたから学習が主眼だなあと授業に出ていましたが、2年生の自分はあまり真剣に考えておらず、いつも同期や3期生とつるんでいました。それで高校は勉強を一からやってくれるところと思い通信の単位制の5日型の学校を選択。その後、大学に進学します。
文化祭での活躍
大学では、中・高ではやらなかった文化祭実行委員を1年次よりやりました。3年間働きっぱなしで、お盆以外は夏休みも仕事をしました。とにかく規模が大きいのです。3年次の実行委員の人数は総勢70名程度で様々な部署があり、会計に所属。3年次は会計部長になり文化祭の予算1000万円弱のお金を運用していました。
会計は文化祭当日より終わった後からが大変で、その後の処理などがあり3月の決算報告書をもってやっと仕事がひと段落となりました。
今は単位取得も順調で、夢である教員に向けて勉強に励んでいます。
今思い返してみると、もし不登校をする前の自分でやってきていたら、そこそこな人生になっていたのかなと思います。でもシューレ中に入学して、人生の再スタートをした感じでほどほどに息抜きすることを覚えることができ、自分の中で遊びにきていたようですが、大切な充電期間だったのです。自分にとって不登校とは、過去は過去で、当時があるから今があるというスタンスでいます。その経験は自分が教職を目指すもとになっていて、順当にやってきたら接しないことに接してこういう状況があることを知れたことは、教員になれた時にうまく不登校に対応することができる自信になっています。
そして今大事にしていることは楽しむこと・体面を気にすることなく自分に正直であること。シューレ中ではいろんな個人がいることを知り、それが認められることを知りました。
この先、現場での対応力をいかに養えるかが必要だと思っています。そしていろんな経験を積んでシューレ中に戻ってきたいと思っています。