1986年生 ● 新宿シューレ ● 小説家 ● 不登校=小2〜 ● シューレ在籍=小5〜中3
不登校の始まりは、小2の頃です。友達は多かったんですよ。休み時間のチャイムと同時に校庭へ駈け出して、よくドッジボールしてました。あとで思ったのは、学校は人が集まる場所で、輪の中に居なきゃいけないという場。学校では楽しい、いや楽しい場所じゃなければいけない、嫌われちゃいけないという重圧を無意識に感じていたんだと思います。学校にいる時の「楽しい」という感情もその重圧が生んだ、まやかしだったのかな、と。
友人の迎えも、もうほっといてよという感じで、マンガ、ゲーム、テレビに浸りながら内心、これでいいのか俺は、と自分を責めつつ毎日過ごしていました。
シューレでの日々
親がこのままじゃまずいと思ったらしく、小5の時、パンフレットを持ってきました。「見に行くだけ」と見学に行き、結果、入っちゃったんです。
シューレでは、ゲームやギターやおしゃべりなど各々勝手に過ごしていて、ばらばらなのが不自然に見えたけど、学校と違って楽しくなかったら帰ることもできるし、そもそも行かなければいいから楽。仲の良い奴らがたまたまいない日、ぼけーっとソファに座ってただけの日も「バイバイ裕文」とスタッフに帰り際、言われて、あ、これでもOKなんだなと。そんな受容されている感覚に救われた部分が多かった。
通信制高校進学、バンド、美容専門学校退学、自分に絶望した
通信制高校に進んだんですが、教科書の内容を写すだけのレポート、2ヶ月に1回のスクーリング、授業ごとに生徒のメンツは変わる、友達は一人もできず、高校に通った感覚はゼロですね。でも振り返ると、彼女と毎日遊び、バンドやって、バイトやって一番充実してたかな。卒業後は美容専門学校に進んだのですが、あと半年という時に退学しました。専門学校も学校ですから、しんどかった。1年の夏には早くも限界を感じ、かなり粘りましたがムリでした。で、バンド仲間が一緒にやろうと声かけてくれましたが、人と接すること自体がムリな状態で、やめました。
自分に絶望しましたね。自分がいかにどうしようもない人間か、と。もう何もできる気がしなかった。
でも生きていかなきゃならない。何だったらできるのか。それで思いついたのが、小説だったら1人でできる、ということでした。もうやるしかないと。切羽詰まった心境でしたから。尊敬している作家の村上龍さんが「小説家はどうしようもない人間に、神が残した最後の職業だ」と言ってるんですが、的を射すぎですよね。
小説『灰色猫のフィルム』ですばる文学賞を受賞
そうして書いた『灰色猫のフィルム』(集英社)を「すばる文学賞」に応募したら、運良く受賞しました。夢のようで現実感はまるでない。ヤッターではなく、ほっ、という感情でした。助かった、生き延びられる、って。
二作目の評価もまずまずで、出だし好調でしたが、やはりプロの世界は甘くない。その後書いても書いてもボツになることが4年続いたのですが、去年三作、今年ももう一作、発表して順調になってきた。といってもそれで食っていける所まではいかない。
以前は、自活できるようにならなきゃ、と焦っていました。でも今は、甘えてもいいんじゃないか、 と自分で自分を許せるようになったんです。もちろん自分の書く小説に対して誠実であれば、という前提でですけど。なんならもっと無茶苦茶になってやろうとも思っています。その方が面白い気がして 。やけになってる訳じゃないですよ?
——自分が価値と思っていることは?
ウーン、難しい。5年後に答えたいですね。